みくしぃ・・・

もはや絶対誰も読んでないだろうと思って
愚痴を書き散らしたらちらほらとアクセスが。

まじかっとびびってたら
このブログ、mixiと繋げてたんだね。
完全に忘れてたぜ。

まあ、恥ずかしいから消そうかと思ったんだが
恥ずかしいのはこのブログの存在そのものなので
このまましばらく放置することに。

万事順調に行ったら、いずれ何かをここで公開します。

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もっと自由に。

僕のような立ち位置の人類学者が言うべきことじゃないんだけど
ほんとにまったくついていけないな、と思うときがある。

流行を追っかけて、その言葉づかいに慣れ、矮小化して使う。
それって、本当に楽しいの?
もはや、人間以外にエージェンシーがあるとか言われても誰もびっくりしないよ。
というか、日本で生きてきた人が、なんでそれに驚けたのか不思議でしょうがない。

ANTと科学論を経由したことで
人類学は言葉に対する信頼を失い、どこか無味乾燥な世界の記述へと向かっているようにも見える。
アガンベン(やエスポジト)を経由したことで、古代という他者を手に入れた思想とは正反対だ。
本当に、それで驚けるのか、面白いと思えるのか。
世界を、人類学を楽しめるのか。

僕はもうひとつの経路を信じずにはいられない。
たぶん、ヒントはすでにいくらでもあったはずだ。
無茶なことをやってみるのもいい。

手始めに、嘘をつくことから始めよう。
人類学者は、嘘をついてもかまわない。
それが、現代人類学に挑戦するために僕が手にしたひとつ目の武器だ。

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10年とちょっと

10年とちょっと前、人生を捨てるつもりで進学して
なんとかかんとかここまで来た。

1年前の今頃に死ぬ思いで見つけた解法は
今から思えばほとんどやけくそで、なんとか針の穴を通すようなものだったけれど
この1月の研鑽で、その有効性が確認できた気がする。

装置は見立てに過ぎない。
だから、装置は同時に複数存在しうる。
というか、そもそも要素の布置でしかないのだから順列組み合わせは無限だ。
とりあえず、ひとつの効果を生み出すのに貢献する要素を拾い集めてひとつの装置と考えるのはいい。
だけど、それは、常に別の装置の一部だったり、内部に複数の装置を抱えたりする。
となれば、効果はひとつには限定されない。
ここにおいて、神学的パラダイムに根ざした装置論の限界を超えることができる。

装置、複数性とその調整、持続、再分配。とりあえず次の10年はこれでいく。

もちろん問題はある。

リアリストの解法は、批判性をもたらさない。
批判性に関しては、神学的パラダイムに寄生せざるをえない。
それを乗り越えるためには、複数性と単一性の調停メカニズムを描く必要がある。
「複数の効果が結果的にひとつに収まり、なおかつ、その収める契機が複数の効果を生み出す基盤に内在する。」
なんて、ことがありえるのか。
おそらく、イメージとしてはすでにいくつもある。
よくわからないドゥルーズの話とか
構造機能主義の再評価が必須になるだろう。
だが、本当に難しいのは、余白を残すことなのかもしれない。
ベクトル、磁場、力。何もないところに作られる何か。

もうひとつの問題は時間性の問題で
どの程度の時間の幅を同時とみなしていいのか。
これは、持続の問題だ。
ホワイトヘッドを援用しても、持続の幅が何に依存しているのかは説明できない。
それは、完全に説明の向こう側にある。所与としてしか把握できない。
変化と同じように、持続もある時間平面における比較でしか記述できない。
しかし、装置の複数性に注目するならば、本当の意味での同一性・持続は記述できない。

これからの10年とちょっと後
自分はどこまで行けるのか、正直自信はない。
そもそも研究を続けていられる保証すらない。
それは、10年とちょっと前と同じだ。

もう一度、人生を捨ててみるのも悪くない。

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娯楽。

なんとなく、日々触れている娯楽が
それほどおもしろくないのに、惰性な気がしていて
体にがつんと響くような何かを求めて
いろいろ探してみたらやっぱりトランスがいいのかなと思ったり。

そんなこんなで1日を無駄に過ごしてしまう。

というわけで、どうせ誰も見てないのだからということで。

昨日の話は思ったよりも根が深いなと思う。
やっぱり、フーコーは本当にすごいとおもう。
今の日本の状況と最近の人類学の展開がなかったら
とてもじゃないが理解できないようなことをやってんだと思う。

そういえば、ネット界隈ではカオスラウンジっていうアート集団が話題らしいですけど
まあ、「よかったねおめでとう」って感じですね。

他人の心を動かすことがアートの本分だとすれば
あれだけ多くの人を怒らせたら、完璧にやりきった感があるよね。
もちろん、アートだからといって、誰からも何からも守られることはないし
自分の穴をふくところまで含めてアートなんでしょうからがんばって。
でも、今回以上に、人の感情を揺さぶるのはなかなか難しいだろうなー

おそらく、僕を含めてアート界隈とほぼ無関係に生きている人間にとっては
アートの存在意義なんていうのは、何らかの感情を喚起してくれること以外にないわけで
それに、金を払おうなんて気もないし、アーティストが育つかどうかにも興味がないわけで。
それが、嫌悪であろうと、激怒であろうと、喚起したことには変わりないしね。

しかし、あんだけ棄損しても、まったく聖性が立ち現れているようにみえないってのはなんでしょうね。
それとも、怒ってる人にとっては、やはり何かしらの聖性が立ち上がっているのかな。
聖性を感じられないのは、僕の問題か、対象の問題か、方法の問題か。
方法の問題ならば、棄損という方法そのものを、棄損していくってことかね。
いづれにしても、超ハイコンテクストの中で、観衆の反応を含めて完成した感はある。

まあ、いろいろと思考の材料を提供してくれるという意味ではなかなかに興味深いけど、
娯楽としてのレベルは低いよね。

そう。
感情の問題は、アートや儀礼と本来的に結びついているんだよね。
演劇だって、ある種のアートなわけだし、劇場化ということの意味はそこにあるのか。

さらに言えば、僕らだって、基本的には感情の動きを利用して授業をするわけで
人類学者が最初に教える、あの価値と情報の関係についての基本的なテーゼは
やはり、どこか、自己矛盾をはらんでいるといわざるを得ない。

これが、次のプロジェクトの1つテーマ、
「BGMを聞いて勉強する高校生から何を学ぶべきか」っていうことかなと。

しかし、誰も読まないとはいえ、ひっでえ文章だな。
何一つ、伝えるつもりのない文章。
でも、それが妙に心地よい。

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価値と感情。

この2週間ほど、気持ちの余裕ができて思考が進む。
やはり、ある程度のゆとりがないと、新しいものは生まれてこないな。。。

というわけで、
さしあたり、今年の前半に明確になったのは、
情報と価値の分割不可能性、あるいは、
価値の情報に対する優越ということか。
これは、おそらく、理性的な知的エリートの前提を
大きく切り崩す視覚の1つになりうると思う。
とりわけ、人類学にとっては重要な問題を提起するはずだ。

それを認めた上で、
現在の日本を取り巻く、政治とメディアの問題をどう乗り越えればいいのか。
感性に基づく政治が成立しうるとすれば、
それは、民主主義をどこに連れていくのか。
あまりにも壮大だが、政治哲学の重大の主題はここにあるはず。

この背景にあるのが、感情と感覚の分割不可能性なのだが
この辺をきっちり議論しながら、次の方向性を探っていきたい。

と、書く事で忘れないようにしないと。
先は長い。

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久しぶり

忙しい中でも何かを吸収すべく
ゼミの文献のレジュメ作成に取り組む。

しかし、カストロ先生まじで半端ないっす。
本当に久しぶりに意味を確定できない文章を読んだ気がする
(スローターダイクの方がまだわかりやすいよ!!!)。

たぶん、こういうのは言ってることが正しいかどうかを判定するんじゃなく
読みながら何を考えるかっていうのが大事なんだろうな。
個人的には、読者に丸投げしてないで、
もっと、人間の理解できる言葉で書けよ!って思いますが。

ほんと、騙された気がするわ。

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通常業務

4月から、例年以上のハードスケジュール。
弘前に行って、地元で発表して、ウプサラに行って。

たぶん、限界ギリギリのところで仕事をこなしているはずで
それにともなって、いろいろと新しくやりたいことができているのだけど
全くと言っていいほど、作業が追いついていない。

ていうか、やるべきことが終わってない気がする。
この、何かに追い立てられている感じは
7月が終われば無くなる、、、なんてことは絶対にないわけで
いったい、いつになったらなんとかなるんですかね。

うーん。

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生きていた世界を思い出すこと

久しぶりの更新。
ごくごく普通に生きています。

何かを書かなきゃいけないとは思っていたけれど
何を書いていいのかわからずにいた。
時々刻々と変わっていく状況の中で
いつまでも有効性を失わない言葉をつむぐのは本当に難しいのだと思った。

あえて、一人の教師としてえらそうに書くならば、
きちんと理解すべきなのは、
僕らはもともと火宅に住んでいたし、
これからも住み続けるしかないということなんだと思う。
今の日本には、神も仏もいやしないんだから。

原発の事故さえなければ100%安全な世界に住んでいたかのように思わないこと。
事故なんて無くたって、僕らはいつ死んでもおかしくない不確定な世界に住んでいたはずだ。
それを、何か新しい危険に直面したからといって
過去をいたずらに理想化して、仮構すべきではない。

これが、マスコミの垂れ流す不安に対して僕の言えること。

たぶん、確率とかを持ち出して
「かつてより危険性があがっている」という反論がくるだろう。
確かに、それはそうだ。
だが、その危険性はどれくらいあがっているんだろうか。
それは、「あがっている」かもしれないけれど、どのくらいかなんて、誰もわからない。
わからないことでびびってもしょうがない。

今までだって、わからないことはたくさんあったはずで、
100%未来を見通せる世界が当たり前だったことはこれまでもないし、
そもそも、そんな世界は存在したことすらない。

100%の安全性と100%の透明性が確保されないと「いけなくなった」のは
いったい、いつからなんだろうか。
それが得られないと、ビビって、パニクって、ヒステリーを起こす。
で、誰かを叩く。

価値判断を交えずに、しっかりと現実を理解していく姿勢こそが
今、もっとも求められているはず。


そういえば、政府が放射線の暫定基準を上方修正するとか言う話だけど
あの「基準」っていうのは、結局、安全かどうかの基準ではなくて
「安全だと言って、被害が出たときに保障する基準」なんだよね。
つまり、科学の問題や健康の問題じゃなくて、経済の問題ってこと。

基準を低いままにして、保障対象者=人口になったら
結局、全員の払った税金で全員に賠償するという無意味な事態になるから
安全かどうかとか、健康に害があるかとか、科学的に正しいかとか
そんなこととは無関係に基準は上げなきゃいけないのは当然なんですよ。

びびったり、ぱにくったり、誰かを責めたくなったり、自分は悪くないのにと言いたくなってみたり
そういう感情そのものを否定するつもりは無いけれど
その感情を使って、支持率や視聴率を稼ぐ行為は火事場泥棒と変わらないよね。 


とりあえず、今はここまで。
他にも、対して被害も受けていない遠くからえらそうに書く理由とか、
いろいろ思うこと・書くべきことはあるけど、それはまた今度、、、書けるかな。。。

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余白

人類学の翻訳において
余白を残すこと
の是非は、大事なポイントである。
ような気がする。

説明し尽くしてしまうことへの躊躇は
自信の無さからくるものなのか
政治的に正しい態度を守るためなのか
それとも、理論的にそれが正しいからなのか。

そんなことをぐるぐる考えながら
余白を残す方法について考える。
文章では、余白を残すためには
余白の輪郭を書かなきゃいけない気がする。
でも、それを説得的に書けないでいる。

難しい。

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はつはる。

今更ですが、おめでとうございます。

なんとなく、いつでも本気なのに
振り返ってみれば、さぼっていたように思えるのは
どうしてなんでしょうね。
やはり、労働効率が悪いからなんでしょうかね。

僕の場合の効率の悪さは
机に向かっても仕事が進まないのではなく
机に向かえば、仕事は進むのに、
机に向かうまでに膨大な時間を必要とするという
本当にサボりぐせのようなものだから質が悪い。

というわけで、
今年最初、というか去年最後の業績が
無事に出版されたようでうれしいです。

そして、年末年始を費やして書いた原稿が
自分としては、それなりによくできている気がして
ちょっぴり悦に入っています。
早くどっかに投げて、周囲の反応を知りたい、感じ。

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